東日本大震災から年数がたち、当時赤ちゃんだったうちの長男も大きくなりました。
私は宮城県に住んでいて、震災の体験をしました。
今回改めていろいろと思い出したので、いつか誰かのお役に立つかもしれないと思い、言葉にしてみたいと思います。
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東日本大震災の被災体験や被災地の震災遺構、復興や災害時の備え
東日本大震災の宮城県の地震
当時6ヶ月の長男の育児休業中だった私は、入院中の母の病理検査の結果を聞くために、近い親族と一緒に病院にいました。
医師から癌であることや、今後の治療の説明を受け、母の病室に戻った時に地震は起こりました。
腰掛けているベットが動いて、ずれいってしまうほどの強い揺れで、外では電柱がぐにゃぐにゃとまるで柔らかくなってしまったかのように揺れていて、見たことの無い光景でした。
他の病室では花瓶の割れる音が聞こえて、浴室からは高齢者の入浴介助の介護士の「止まってー!」という叫び声が聞こえていました。
6ヶ月の長男は、私の父親が廊下で抱っこをしていたところだったので、抱きかかえて廊下の手すりに必死につかまり、守ってくれていました。
とてつもなく大きな長い揺れがおさまると、海の目の前に住んでいるおじは、「津波が来るから車を高台にあげて来る!」と慌てて帰って行きました。
停電、断水し、母が心配だったので、その日は病院に泊まらせてもらうことにしました。
夜中真っ暗な中、強い余震はひっきりなしにあって、眠れる状態ではありませんでした。
暗くなってからは、トイレの中だけライトが設置してあって、照らしてありました。
断水しているので、トイレも流せない状態です。
外では避難を呼びかける広報車の音が、何度も聞こえていました。
翌日、赤ちゃんのおむつを買わなければ大変なことになると思い、近くのドラッグストアの開店の時間に行き、なんとか紙おむつを3パック購入しました。
私が購入した後に、その店は一時的に店を閉めたようでした。
宮城県の津波の状況
ドラッグストアへ行く途中には、道路が津波の海水で浸水しているのを見て驚きました。
実家の方へ行ってみると、玄関の10メートル先くらいまで海水が来ていましたが、家は無事でした。
車を高台に上げないと行けないと昨日慌てて帰っていったおじは、家の二階から、目の前に津波が打ち寄せて来る様子をずっと見ていたそうです。
一回目に打ち寄せるよりも、二回目の方が波が高かったので、どこまで高くなるのかと怖かったそうです。
結局一階の床上浸水で、それ以外は家の前のウッドデッキが流された状態で済みました。
のちにボランティアの学生さんたちに来てもらって、泥をかき出したり、だいぶ手伝っていただいたようです。
東日本大震災その後の体験
実家の近くのスーパーに、赤ちゃんをベビーカーに乗せて、何時間も並び食料を調達しました。
その間私の父親は、水を汲みに行きました。
スーパーに並んでいる途中、授乳やおむつ替えの必要があって、そのたびに赤ちゃんが泣きました。
そうすると周りの方が「車があるならそこで済ませておいで。終わったらまたここに戻ってくればいいから。」と言ってくださって、皆さんの心遣いに助けていただきました。
スーパーでは〇〇は何個まで、などと制限がありましたが、みんなそれを守り食料品を購入していました。
いつまでこの生活が続くのか、いつまで食料が手に入る状態にあるのかも分からなかったので、なるべく最小限の水や食料を口にしました。
でも水分を十分にとっていなかったために、少しずつ母乳の出が悪くなってきたことに気付きました。
赤ちゃんの命のために、私は水分もとらなければいけないと思い、そこからは量を増やしました。
停電のため、夕方になれば暗くなるので、夜は早めに布団に入りました。
夜中は、赤ちゃんのおしっこだけなら、真っ暗な中で手探りで交換しました。
音的にうんちも出ている可能性があれば、父親に懐中電灯でその都度赤ちゃんのお尻を照らしてもらって、おむつ替えをしました。
日中は昔ながらのストーブでやかんに湯を沸かし、お風呂は入れなくても、赤ちゃんのお尻だけはただれてしまわないように、洗面器のお湯で洗いました。
その後、それまでいた実家から自宅へ戻ったところで、偶然主人と再会できました。
主人の職場は高台だったため無事でしたが、プロパンガスの爆発する音が聞こえ、それこそ高台から見る海は油で引火し、まさに火の海で怖かったそうです。
主人の話によると、ひざくらいまで水が引いたところで、職場から出て海水の中を歩き、線路を頼りに、それをつたって帰って来たそうです。
見た時には、革靴が海水の塩で真っ白になっていました。
地震が起きた日、主人からの無事だというメールを私は受信していました。
でも、私が送った「私も赤ちゃんも無事」のメールは、送信済みになっていたはずなのに、実際には主人には届いていなかったそうです。
その後携帯は使えない状態で、お互いに連絡ができなかったので、主人はもう妻と子供はだめだったのだろうと思っていたそうです。
実家にいても自宅にいても海の近くなので。
でも自宅の方も、家のすぐ近くまで海水が来てはいましたが無事でした。
その後、主人の実家の方へしばらくの間お世話になることになりました。
そこでは電気も水道も使えたので、それまでの夜の暗闇での生活とは別世界で、夕方到着し町の電気の明かりを見た時には思わず涙が出ました。
一時的に退院した母と父親は、しばらく実家で停電と断水の中で生活していました。
私の主人の実家の方へ来るように、両親も誘っていただいていたのですが、自分の家から離れたくなかったようです。
その後、私の弟の会社で、被災した家族を温泉に無料招待してくださり、それまでずっとお風呂に入れなかった両親はとても喜んでいました。
震災後落ち着くまでの間は、道を赤ちゃんを連れて歩いていると、ボランティアで来てくれたような青年が「おむつは足りていますか?」と声をかけてくださったり、たくさんの方が手助けに来てくださっているのを感じました。
たくさんの方々のおかげで、そして地元の皆さんの温かさで、6ヶ月の赤ちゃんの初めての子育ての中、私は震災を乗り越えることができました。
まとめ
東日本大震災を経験してから我が家では、水や食料、トイレットペーパーをはじめ、こまかい物まで、もしもの時の備えを常にしておくようになりました。
防災の日に、学校で学んできた子供たちと一緒に、中身の確認をするようになりました。
お風呂の残り湯も、すぐに流さずに、次の入れ替えの時まで残しておくようになりました。
そして何より、あの経験を通して、大切な人との何気ない毎日の中に、幸せがたくさんあったことに気付かされました。
それはきっと私だけではなかったと思います。
家族との何気ない時間の中にある幸せを、日々大切に感じています。
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